かつてレイチェル・カーソンといえば『沈黙の春』だった。これは長く重いので、『センス・オブ・ワンダー』に置き換えたのだろう。『センス・オブ・ワンダー』はタイトル通り「自然への感嘆の感覚」を呼び起こすエッセイである。未完だとされる。レイチェル・カーソンが亡くなったのは1964年。『沈黙の春』は1962年。ある意味でこの『センス・オブ・ワンダー』は遺作である。若くして亡くなったとも言える年齢である。
とは言え読んだことがなかったので、『沈黙の春』の延長上にあるものだと思っていた。そうじゃなかった。自然について深く感じることについてのエッセイだった。昔なら、そうは言ったって、と思ったことだろう。けれども、今は少しわかる。自然と触れ合うことで、自然という謎に惹きつけられる。それが自然科学への関心と、自然への倫理観を生むのだということ。畏怖の感覚がないと、無制限に熊を殺せ(逆に保護しろ)と極論に走るのだと思う。
『沈黙の春』で辟易したひとも、こっちだったら、加害者性を糾弾されている感覚に陥らずに済む。社会問題、環境問題系の本は、読んでいるこっちが加害者として認識させられるのが億劫で、手に取らないという人も多いだろう。小生も同じである。お前知らず知らずのうちにいじめてるよ、と言われたら、やっぱりいい気持ちはしない。ただ個人的行為の集積が社会の規範を維持してしまうことで、排除を温存することもある。それもわからんではないのだ。
カーソンが幼い甥と海辺へ行き、森へ行き、自然と触れ合う。メイン州なんて、1960年代には、そんなところもあったんだろう。日本だってそうだった。カーソンが、もし、現代に生きていたらどうだろうか。どう思うか。隅田川はかつてに比べて綺麗になった。人口が減り、里山が減り、自然と居住区の境界が薄くなった。温暖化なのか長期的な気候変動の弾みなのかわからないけれども、平均気温が高くなって、生態系が変化した。やはり、なんとかしろ、というだろうか、それとも、その変化も自然の運動というだろうか。
ディープ・エコロジストは、人間の数を間引きしろというかもしれない。地球規模で行ったら、人間の数の増減は、ある意味で一瞬である。100年なんて一瞬だ。そういう時間軸にカーソンは達しているような気がする。だからといって何もしないのも気が引ける。ただ、それならビル・ゲイツや孫正義に率先してやってほしい。そんなこと自分たちの存立条件に関わるから、当然建前以上には手出ししないと思うけどさ。
薄い本なので、すぐに読み終わる。後ろにいろんな人のエッセイが書かれているのもいい。半分弱がそれ。要するに写真もあり、短くて、内容もちょっといい話なので、こんなタイミングで読んじゃったけど、もっと最初のうちに読んでおいても良かったかもしれないね。
常識とはバランスの支点だろう。規範はあまり好きじゃないが、常識は嫌いじゃない。規範は自然化された人為で、常識は人為の中の自然だと思うからだ。センス・オブ・ワンダーはその常識感覚だといってもいいのかもしれない。コミュニケーションは人工物だと思う。都市社会になって、コミュニケーションの頻度が極端に減ったと同時に重要度は高まっている。その重要な分岐に失敗し続けると、孤立、そして、無縁になっていくのだろう。人工物にうつつを抜かしていてはいけないということなのかもしれない。
説教くさくなった。若松を見習うか。