光朗(ミツルー)の日記

窓際社員のミツルーです。読書かと思えば最近は本当に日記です。

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』~2025年度版・新潮文庫の100冊を読んでいく~71

しばらく、のどの調子が悪かったり、採血で何度もやり直しして、結局その日の採血は中止になったりと、全体的な具合が悪かったために、読書も、あんまり気が乗らずにいた。のどについては、風邪というよりも、何か出来物のようなものができて、つばをのむと引っかかるので、気になっていた。今は、だんだんと治ってきている気がするが、病院で診てもらうことにした。

 

で、そんななかやっと新潮文庫のシリーズを読みだした。食わず嫌いだった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』というタイトルを持つこの書籍は、エッセイであるような、彼女の息子さんの「底辺中学校」でのドキュメンタリーであるような、不思議な内容だったのだけれども、思っていたような読者の疚しさを刺激するようなものではなく、起こる問題を問題として認識していこうとする姿勢で書かれたものだった。

 

誤解していた。

 

アンダークラスの住宅街とされる中にも、格差のようなものが出来、その格差のホントの末端にいるのは白人家庭が多いという事実がある。それゆえ、その状況に対する怒りのはけ口は、移民の子どもに向けられたり、反社会的行動に結びついたりするという。

 

アイデンティティ・ポリティクスと貧困格差という軸が、こんがらがっている、という指摘は納得できた。昔の感じだと、貧しさと移民という存在は比較的結びついていて、貧しさを軸に層が手を取り合うこともできた。

それがある程度、経済状況を好転すると、お金の問題よりも人種間差別や男女間差別、そしてセクシャリティの差別の方の問題がとりあげられる。それがアイデンティティ・ポリティクスを産んだ状況だ。

けれども、移民の中でも階層上昇があったり、移民がそもそもお金をもってたり、男女における経済格差が逆転したり、という中で、再度、かつてそれらの枠の中で経済格差が生じると、その反作用が起こり、ヘイトだったり、フェミサイドだったりという事態に陥る。

そういうのをおそらくは「インターセクショナリティ」というのだろうが、なるほど、実地に理解できたような気がする。

 

そして、より興味深いのは、こうした「底辺中学校」で行われている取り組みだ。演劇をやったり、コンサートしたり、「シディズンシップ・エデュケーション」というプログラムも面白いと思った。テストは簡単そうだけど。

 

途中までしかまだ読み終わってないけど、ざっと目を通すと、非常に満足できる内容だろうと思う。食わず嫌いだった。

 

「何かを伝える私」を見せたいのではなく、「伝えたい何か」を見せようとしている、と思った。エッセイではない、と思えるのはその辺だが、エッセイスト全員が別に「何かを伝える私を見せたい」と思っているわけじゃない。ただ、臭みのあるエッセイはたいてい「何かを伝える私」が前に出すぎている。

 

そういう意味で、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、語り手よりも「伝えたい何か」が際立つ。そこがいい。