個人的に『グレート・ギャツビー』は、何度も読み返しても、ピンとこない小説だ。いや、スコット・フィッツジェラルドの作品全体が、ピンとこない。『夜はやさし』という自伝的小説は、まあまあ面白かったが、それはゴシップ的な関心を満足できたからである。そもそも、金持ちが没落したところで、それが何か?みたいな気持ちになるからだろうと思う。小説の登場人物は言葉をうまく使いこなし、思考も高校生だったりするのに巧みであったりする。だから、そこそこ教育程度の高かろう人物であり、そんな連中の枕草子なんか、どうでもいいよ、と思うから、小説が読まれないのかもしれない。
一方で、村上春樹の新刊を、並んでまで買おうとするのはなんでだろう。『海辺のカフカ』は面白かったが、村上がフィッツジェラルドにかける思いの質も量もしっくりこない。そもそもアメリカ文学に対する彼の思いが、やっぱりわからないのかもしれない。何を言いたいか、小生自身もわからなくなっているのだけれども、まとめると、
村上春樹を手放しで面白いとは言えない。
それは小生がフィッツジェラルドを読めない、というところに根源がある気がする。
小生が読めないフィッツジェラルドを村上は読める。
その部分が、村上の小説に核としてあり、それを小生は読めないから、手放しで面白がれない。
それは村上がダメ、小生がバカ、ということではなくて、究極何かが違うんだと思う。
小生がバカである可能性の方が高いが。
でも村上が持ち上げるカラマーゾフの兄弟は読めたし、これはやはり素晴らしい小説だと思った。
そこはある程度同期できる。
おそらくフィッツジェラルドに、どこか秘密があるんだと思う。
ということだ。
で、後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』の「分身」の章である。
幕張に引っ越し、編集者と談話する中で、馬加康胤の首塚のあるこんもりとした丘を見つけた作家。それを探求しようとする最中、多忙と、手術とで、首塚のことに関われずにいた。身体が拘束されていても、首塚についての思いは飛び、『平家物語』の首級、『太平記』の首、平家を変形した高山樗牛の「滝口入道」のこと、以前に偶然見つけた新田義貞の首塚、その隣にあった滝口寺のエピソード、話は飛びに飛び、再び『太平記』の世界に戻ってくる。
それが「分身」の章までの前段になる。ここでは、二条河原の落書に思いを馳せ、『太平記』の作者についての考察を進める中で、法師は複数いたのではないか、という仮説の面白さと、作者が複数いることで物語が豊穣化することを述べ、そこから、塩冶判官と高師直、そして、高師直のもとに出入りして、ニセ艶書を作った兼好法師の話へ移り、その塩冶判官の首からは血が出る、という話をする。へー、とは思うが、一向に、幕張の首塚には行きつかずに、終わる。
いや、それはもう感想というよりも、こういうのがあんまり響かない人も多かろうという話。
歴史系だと、自分が立てた問いに解答するダイレクトな史料なんかなくて、問いに近似する史料をもとに推測して、もっとも可能性の高そうな説明なり、叙述なりを行うから、後藤明生がやってる動きが、歴史事象の事実性を追っている時の思考のようで面白い。だから、面白がれる。
村上がやっている自己の内側に折り重なっていくような思索。ストーリーの中に典型的に出てくる不思議設定と性行為。こういうパーツの組み合わせからどうしてフィッツジェラルドなのかが、やっぱりわからない。もちろん大作家だから、フィッツジェラルドを模倣するわけではなく、そこからスタートしたのだと、言うのだろうけれども。